釈尊は侍者の阿難尊者から「世尊が亡くなられたら、私たちは葬儀をどのように執り行えばよいのでしょうか?」と尋ねられたとき、「私の葬儀は在家信者が執り行ってくれる。あなた方出家者は葬儀の心配などしないで、修行に励みなさい」と答えたという。ここから仏教者は本来、葬儀には関わってこなかった、葬儀にかかわることは仏教の本義ではない、ということがしばしば言われ、葬式仏教と揶揄されることも珍しくない。
しかし現実には、死者に対する葬送の儀式やそれに伴う先祖供養を、私たち仏教僧侶が執り行うことは当然のこととされているし、私のところも含めて日本の寺院の殆どが先祖供養を全面に出してお葬式と法事をやっていかないことには、財政的に成り立たないという現状があることも、また確かなのである。
私は正直なところ先祖供養について確固とした見解を持ってはいない。本義と現実の狭間でいつも揺れているのだが、ここでは自分なりに考えている先祖供養の意義を述べてみたい。
死んだおじいちゃんにお経はきこえるの?
さて先祖供養を考える上で、まず問題になるのが「人間は死んだらどうなるのか?」という疑問であろう。浄土門では「亡くなった人は阿弥陀様に導かれてお浄土に往生しているから安心しなさい」と説くことが出来るのであろうが、禅門では一般に「死んだ先のことは誰にもわからないから、そんなことは考えるな」と言う立場をとっているため、簡単に答えるのは案外難しい。
数年前『子供電話相談室』というラジオ番組に、小学一年生の男の子から「死んだ人にお経は聞こえているのか?」という質問が寄せられたことがあった。その子はおじいさんが亡くなって、初めて葬儀を経験したばかりだったようだったが、これはよくよく考えてみると大変に難しい問題である。何故ならこれは前述の「人間は死んだらどうなる」ということと同じ問いだからだ。
そのときの回答者、曹洞宗の無着成恭師は、次のように答えていた。まず釈尊は人間の死後の世界についてたずねられたとき、実は無記(捨置記)といって、あるとも無いとも言わずに無言でいた。死後の世界があるという人にはあるでいいし、無いという人には無いでいいということだったのだろう。
では死んでしまったら何にも無くなってしまうのかと言えば、決してそうではない。死んだ人の魂は遺された一人ひとりの中に飛び込んでこれからも共に生きる。だから君の中に飛び込んだおじいさんの魂も、君と一緒にお坊さんのお経を聞いていたんだよ、と。
私は禅門の立場ではこのように答えるよりほかないのかもしれないと、無着師の答え方に感心し、それからこの話を手がかりにして自分なりに考えている。
遺されたものと共に生きる見えないいのち
私たちのこの体は、やがて老いて病にかかり、死ねば法に従って焼かれてしまう限りある身である。先祖といっても私たちが直接知っているのはせいぜい三代前くらいまでだろうが、すでに亡くなっている人たちのことを思うと、私たちの心の中にはその人の姿形や声色は、今もなお生々しく立ち現れてくるし、その人の口にしたこと行ったことは依然として生きている。それを無着師は「死んだ人の魂は、遺された人々の中に飛び込んでこれからも共に生きていく」と言って魂という言葉を用いたが、魂と呼ぼうが何と呼ぼうが単に記憶と言って簡単に片づけることのできないものが確かにある。つまり私たちは死ねば焼かれて灰となるこの身のいのちを生きていると同時に、焼いても焼き切れない見えないいのちをも生きているのである。
したがってこの立場から言えば、先祖はお墓の中で眠っているのでも仏壇に鎮座しているのでもなく、他ならぬ私たち一人ひとりの中にいるということになるのである。ここから先祖供養が、死者の冥福を祈るために遺族が回忌法要を行う、いわゆる追善供養に止まらない意味合いを持ってくるのだと、私は考えている。
ではそれはどういうことなのだろうか。
見えるモノしか信じない現代人
私たちは自分がいつかは必ず死ぬのだと言うことは、普段考えないことにしている。それはそうだろう。もし真剣にそんなことを考え出したら、私たちの家庭生活も社会生活も成り立たなくなってしまうに違いない。死というものを考えないことによって、私たちの日常の平安は保たれていると言っても過言ではない。しかし、それは決して死を忘れてよいと言うことにはならない。何故なら私たちにとって本当に大事なことは自らの死を直視するところからしか見いだせないからである。
一般に現代人にはモノへの極端な偏重あるいは数値化が顕著な傾向としてあるといわれている。例えば偏差値でしか子供の成長をとらえられない親であったり、機械による検査結果でしか病気を判断できない医者、あるいは売上高でしか社員を見られない経営者などである。言い換えれば現代人には形あるものしか見えないし、また見ようとしていないのではないか。
当然の事として〈いのち〉も目に見えるものとしてしか信じられず、母親のおなかからおぎゃあと生まれてから、棺桶に入るまでの間の肉体〈モノ〉だけが〈いのち〉だとの思いこみからなかなか抜け出せず、死も肉体の消滅と言う面でしか受け止めらないのだ。だからこの肉体に根ざした五感を満足させることが幸せだと多くの人が信じている。例えば福祉の充実した豊かな高齢化社会などときれいな言葉を使っても、要するに現代人が己の欲望を十分に満足させることを最大の目標としていることに何らかわりはない。そのために資源を浪費し環境を汚して、膨大な国の借金を先送しているのである。
アメリカ先住民のナヴァホ族には「自分たちの今の行為が七代先の子孫にどのような影響を及ぼすかを考えて行動せよ」という言い伝えがあるという。子や孫の代にではない。自分たちの行いが七代先までも残ることを考えて今を生きるというのである。生きている間が花よとばかりに五感を充足させることに汲々としていては、後の子孫から敬われる先祖となることは難しいにちがいない。
その一方で家庭の不和や病気あるいは事業の行き詰まりなど、自分の思い通りにならにことに直面すると、それは成仏していない先祖の霊が祟っているなどという話に、ついフラフラしてしまうのだ。社会的地位も高く教養もありそうな人が、案外簡単に霊感商法などに乗せられてしまうのも珍しいことではない。仕事もうまくいった家庭も円満、これもすべてご先祖様のおかげといって墓参りをする人が一体どれだけいるだろうか。そこに私は現代人の精神的な傲慢さを見る思いがするのである。
おわりに・・・花こぼれなお薫る
一周忌、三回忌というが、忌と言う字は己と心とから成り立ち、心におそれいましめる意味をもっている。これは亡き人を偲ぶと同時に、私たちのいのちはこの肉体と共に滅ぶのではなく、言ったことやったことは見えないいのちとしてずっと残っていくこと、そのことに思いを致して己の心を省みろということではないだろうか。
昭和五十六年に台湾で起きた航空機事故で惜しくも亡くなった脚本家の向田邦子さんのお墓は東京の多磨霊園にあり、俳優の森重久弥氏が揮毫した墓誌銘には
花ひらき
花香る
花こぼれ
なお薫る
と記してある。
向田さんは優れた作品をたくさん残して亡くなっても今なお多くの人に感銘を与えているが、それが散ってもなお薫る、しかも薫陶という言葉もあるように、場合によっては人をも動かしてしまうような薫りであろう。
己の心を省みるとは、自分は果たして関わりのあった人たちにどんな薫りを残すことが出来るだろうかと問うことなのではないかと思う。少なくともやがては灰となってしまうこの身に根ざした五欲を満たすことが、人生の最高の価値とは言えないのではないか。
そして親子、連れ合い、あるいは兄弟、友人など人生と生活を分かち合った「二人称の死」を折に触れて偲び、自らの生き方を振り返る機会として先祖供養が行われるならば、回忌にこだわらずやりたいときにやればいいし(実際毎年ご主人の命日に法事を行っている信者さんもおられる)、逆に強要するものでもないと思う。
核家族化と少子化が進み、そもそも先祖という観念が希薄になっている現代人を納得させられるような先祖供養の意義を説くことは容易ではないだろうが、私は以上述べたような思いで法要を行っている。
普門庵住職 見城宗忠