先日のことです。スーパーのレジで、大きな声をあげている老紳士に遭遇しました。なにやら特価品の値段が訂正されないままレジ打ちされたことに腹を立てている様子でした。このように相手の間違いを見つけると、鬼の首でも取ったかのように担当者をなじり、埒があかないと「店長を呼べ」とエスカレートしてしまうことも、最近よくあると聞きます。おそらくこの人は「人に迷惑をかけてない、立派な人になりなさい」と言われて育って来たのではないでしょうか。「自分は間違っていない、人に迷惑をかけたことはない」という立派な生き方には、「悪の自覚」はなかなか生まれません。人からかけられる迷惑に不寛容で、したがって人の失敗が許せないものです。 でもどうでしょう。私たちは迷惑をかけたり、かけられたりとお互いさまで生きているのではありませんか?どんな立派な人でも知らず知らずのうちに、身と口と心で人を傷つけてしまうことは必ずあるものです。いや立派な人ほどそのことに気づいていないかもしれません。 吉野弘(1926~2014)の『祝婚歌』は結婚式などでよく読まれる詩です。まず冒頭で 二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい と仲良く暮らすには、立派にやろうとせず自分の愚かさに気づきなさいと、若い二人に呼びかけます。家庭円満の秘訣は「立派すぎないこと」と言うわけです。そして 互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか あとで 疑わしくなるほうがいい と、人の非を責めるほど自分は偉いのかと「悪の自覚」を促します。悪の自覚というと大げさですが、自分でも気づかないうちに人を傷つけているかもしれない、人に迷惑をかけているのではないだろうか、という自覚です。 なぜなら仏教では人間の本性は善でも悪でもなく、縁によって悪にも善にもなる無性なものととらえているからです。例えば人が犯罪を犯すことなく生きているのは、その人の心がよいからではなく、また反対に犯行に及んだとしても、その人の心が悪かったから生じたと決めつけるのも間違いだということです。つまりよい心や悪い心が人の善悪の行為を作り出しているのではなく、その人がどのような縁に出会ったかによって行為が左右されるという、非常に不安定な存在が私たち人間だととらえているのです。 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい 仏道を学ぶとは決して立派な人になるためではありません。 我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち) 従身口意之所生(じゅうしんごいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ) との教えに照らし合わせて、自分の至らなさ、未熟さに気づくことが大切です。なぜならこの教えがあればこそ自分の立ち位置がわかるからです。凡夫の自覚といってもよろしいでしょう。お互いに迷惑をかけたりかけられたりして生きているのが、私たちの偽らざる姿ではないでしょうか。この自覚のない立派な善人ほど、実は救いがたいものなのです。 (2015年3月) 追白:巷では責任ある地位の方々が「悪いことと知らなかったから罪にはならない」などとうそぶいていていますが、仏教的には悪事と知らずに犯すほうが、よほど罪深いのです。なぜならそこには反省の心が芽生えないからです。