いろはにほへとちりぬるを
わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしゑひもせす
手習いの手本として広く用いられてきたこの「いろは歌」ですが、これはまた仏教の教えを上手に織り込んだものとして知られています。
色は匂へど散りぬるを
我が世誰そ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢みし酔ひもせず
まず「色は匂へど散りぬるを」と読みますと、世のご婦人方の嘆息が聞こえてくるようですが、オギャーと生まれた赤ちゃんがハイハイを始め、やがて伝い立ちから自分の足で歩くようになるのも、また無常です。あるいはたった一人で興した会社が、大会社に成長するのも無常です。一見動いていないように感じられるこの地球ですが、24時間で自転し更に365日かけて太陽の周りを公転しているように、実はすごいスピードで動いています。このようにあらゆるものはひとときもとどまることなく、絶えず動いて変化しています。これが諸行無常です。
しかし人間は勝手なもので、上り坂の無常は歓迎するけれど、下り坂はかなわんというわけです。何故かと言えばそれは自分が一番可愛いからです。「自分が一番可愛いという物差し(これを自我と言います)」に適うものは歓迎するけれど、適わないものは拒否するのです。「我が世誰そ常ならむ」とわかっているけれど、可愛い自分はいつまでも若くてきれいでいたいので、年取ってシワやシミの増えることが許せないのです。ですから「私何歳に見えます?」と往年の女優さんが宣伝する高額のアンチ・エイジング化粧品が飛ぶように売れているのでしょう。男性も同じです。必要以上に若作りしてる男性を見ると「エイジング=成熟」とはほど遠いなあと思わされてしまいます。
目盛りのない仏さまの物差しをあててみれば、本来成長も老化も自然の在るべき姿なのであり、そこには善悪や損得はありません。懸命に生きる私たちの日々の営みもまた然りでしょう。
例えば野球です。2対1で迎えた9回裏、追う側は既にツーアウトですがランナーは2塁と3塁、バッターは4番とくれば一打逆転のチャンスです。ファンは総立ちで応援します。でも守る側にとっては大ピンチ。こちらのファンも負けじと大声で声援を送ります。同じ場面に立ち会いながら、それぞれが全く別の思いを抱いて向き合っている訳です。しかしどちらのチームも贔屓ではない人はその状況を冷静に見つめることが出来るのです。目の前で起こっている事象には良いも悪いもありません。立場によってピンチであり、チャンスなのです。つまり私たちの日々の生活は、生活としてあるだけであって、それを受け止める側の「物差し」によって善悪や損得が決まってくるのです。或いはジャンケンを思い起こして下さい。グーに負けたチョキも相手がパーなら勝ちですし、チョキに負けたパーもグーが相手なら勝ちです。このようにジャンケンは、出会った相手によって(縁起)勝ったり負けたりで、そこには勝ちっ放しもなければ負けっ放しもありません。人生も同じようなものではないでしょうか。若いときのあの失敗があったから今の自分があると思えたなら、その失敗は失敗ではありません。反対に若いときの成功が人生を誤らせてしまうこともあるでしょう。つまり仏さまの物差しから見ればあらゆる事象に不変の価値や評価はない(諸法無我)ということになるのではないでしょうか。
先頃亡くなった女優の樹木希林さんは、晩年にあるインタビューで次のように語っていました。
「先が短い私などがメッセージを申し上げるのは、おこがましいのですけど・・・。モノには裏と表があって、どんなに不幸なことに出逢っても、どこかに必ず灯が見えるものだと思うのですよ。もちろん幸せがずっと続くものでもないわけです。とても辛いことがあっても、ソコだけ見て苦しまないで、あんまりへこたれず、少し位置を遠くから眺める、後ろから見るという、そんなゆとりが大切なのではないでしょうか」
樹木さんは若い頃から老け役を演じたりした個性的な俳優でしたが、主役を演じ続ける女優さんだったわけではありません。不本意な役もあったでしょう。更にここ10年ほどは全身ガンを患っておられました。そうした中でこの「少し距離を置いて眺める」という人生観が生まれて、そこに安らぎを見出されたのではないかと思います。
実は私たちが自分の思い通りにならないことに出会うのは、この自我の物差しを固く握りしめている愚かさに気づくためではないでしょうか。勿論自我の物差しを手放すこと(「有為の奥山今日越えて」)は並大抵のことではありません。いや、死ぬまで手放せないでしょう。しかし、諸行無常、諸法無我という仏さまの物差しがあることを知るのは大切です。そして無常感を無常観にまで深めていったとき、そこに本当の安心(涅槃寂静)が得られるのではないでしょうか。出会いを選り好みせずに、得意な時ほどその喜びに溺れずに淡々と事に当たり(得意淡然)、落ち込んだときには却って堂々と構えて(失意泰然)、目の前の事象に振り回されない(「浅き夢みし酔ひもせず」)腰の据わった生き方ができるのではないかと思うのです。