小さくて高性能な家庭用のヴィデオカメラが普及し始めた頃から、日々の万事万端は記録するものとなりました。でも記憶と記録は違います。PTA役員のとき「お子さんたちの姿はカメラ越しでなくご自身の眼でしっかりと見て胸に焼き付けてください」と声を上げたこともありましたが、まったく無駄でした。演出家の久世光彦はあるエッセイで、「過ぎ去った日のことは正確な記録に残されるより、曖昧な記憶にあった方がよほど美しいし懐かしい。人生の記録などというものは、飛び飛びでいいのだ。それを繋ぐのが想像力で、そこから浮かび上がってくるのが情感というものなのだ。いまみたいな記録の時代になってくると〈思い出〉とか〈追憶〉とかいう言葉は、痩せて冷たいものになってしまうことだろう」と、綴っていますが、まったく同感です。「感動した」ではなく「感動をありがとう」という耳障りな言い方が増えてきたのも、スマホでより気軽に記憶から記録に移っていった時期と重なっているように思えます。もちろん公文書などは記憶ではなくちゃんと記録してもらわないと困りますけど、ねッ!
△ 日曜法話会 13日 午後2時から
△ 土曜坐禅会 5日・19日 午前7時~
△ 日曜坐禅会 13日・27日 午前7時~
△ 暁天坐禅会 毎朝5時より6時まで
△ 写経会 8日午後1時~
今 月 の 言葉
風飛泉を撹して冷聲を送り
善峰月上って竹窓明らかなり 【寂室元光】
生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉 【夏目漱石】