大人になる

禅は釈尊が説かれた教えを、坐禅を根本として自ら骨折って冷暖自知する徹底した行の宗教である。従って「我らと衆生と共に仏道を成ぜんことを」の誓願も日常底に於いて実践され得るものでなければならない。この観点から成ずべき仏道について考えてみたい。
仏道は文字通り仏となる道であるが、仏は様々に定義され従って受け止め方も多様であり、成ずべき仏道のありようも自ずから変わってくる。ここでは道元禅師が釈尊の『遺教経』をもとに『正法眼蔵』の最終巻に収められた『八大人覚』を手がかりに考えてみたいと思う。何故ならいずれも最後の教えであり、両師が一番伝えたかった教えが遺されていると考えられるからである。

『八大人覚』の冒頭で道元はまず「諸仏は大人(だいにん)なり」と説いている。大人とは禅語辞典に依れば「修行の円満した人。大徳の人」とあるが、ここでは文字通り「仏は大人=おとな」であると読んでみたい。つまり前述の観点に立てば、仏道を成ずるとは大人になることだと考えられるのである。そして『八大人覚』ではこの大人の要件を
一小欲 二知足 三楽寂静 四勤精進 五不忘念 六修禅定 七修智慧 八不戯論
と八つ掲げている。この八つの要件に共通するのは「己を調える」と言うことであると思う。そして冒頭に「欲少なくして足を知る」ことが大人になるもっとも大事な要件だという。これは釈尊や道元が欲に振り回され、欲に生きてしまう人間の弱さを熟知しておられたからなのだと思う。つまり己を調え「欲少なくして足を知る」大人になることが、仏道を成ずることに他ならないと考えられるのである。
さて欲には食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲と財産欲の五つがあるが、仏教はこれらの欲を否定しているわけではない。はじめの三つは生命維持や子孫を残すために必要なものであり、あとの二つがあるから、科学技術は進歩してきたとも言える。しかし欲はまたすべての迷いの根源でもある。特に人間だけが持つという財欲と名誉欲には際限がないだけに厄介である。昨今大企業経営者の法外な報酬が話題になるが、傍目から観れば充分すぎる報酬を得ていても「もっと、もっと」と際限なく欲しくなるのだろう。E・トッド※1は「そこには経済的な合理性はなく、あるのは魂の病だけである」と看破している。※2
欲を無くすことは勿論できない(それは死を意味する)が、制止、調整することは可能である。言い換えると「人間を人間であらしめるために、本能や煩悩を制止し、整調して小欲にするのが修行」である※3。「小欲を行ずる者は、心則ち担然として憂畏する所無し」で、欲少なければ執着心も少なくなるから、患いも少なくなり心の平安を得ることができるというのである。つまり欲に使われるのではなく欲を使って生きる、これが大人として生きる姿勢ではないか。釈尊や道元から見れば、子どもの頃駄々をこねておねだりしたお菓子やオモチャがお金や勲章にすり替わっただけで、姿形は大人でも中味は子ども(餓鬼=ガキ)のままと言うことなのだろう。

そして小欲と表裏一体を作すのが「知足=足を知る」である。知足とは改めて「足ることを知るために、欲しいものも我慢」と言うことではない。無いものねだりをするのではなく、既に充分満ち足りていることに気づくことなのである。無事であるから今日を迎えることができ、今を生きることができているという事実に気づくことを「知足を観ずる」というのである※4。トルストイが書いた民話の一つに『人にはどれだけの土地が必要か』という寓話がある。小作人から一生懸命に働いていつの間にか大地主になったある農民が、欲に駆られて更に多くの土地を手に入れようとして、とうとう命まで失ってしまったという話である※5。現代社会では様々な分野で「もっと便利に、快適に」という欲望が際限なく拡大しているが、気づかぬうちにこの農民のような愚を犯してはいないだろうか。

思えば釈尊は小さいながらも一国の王子として名誉も財産にも恵まれていた。しかしそれが老いや死の前ではむなしいものであり、欲を満たすことが本当の幸せにはなり得ないと知り、すべてを捨てて求道の旅に出たのだった。言うなれば仏教は釈尊が豊かさの果てに観た絶望から始まったと言えるのではないか。この事は今一度よく考えてみなければならない。『八大人覚』の根底を貫くのは先に述べたように「よく調えられた己」である。大人とは欲に使われるのではなく欲を使って生きること。この身に使われるのではなくこの身を使って自らの主人公となって生きる、それが成ずべき仏道だと思うのである。この「よく調えられた大人になる」という教えは豊かさと便利さの中で生きる我々にとって、極めて今日的な意義を持つと言えよう。

脚注
※1 エマニュエル・トッド(1951~)フランスの歴史人口学者
※2 朝日新聞 2018年12月2日
※3 松原泰道『遺教経に学ぶ』2003年 大法輪閣
※4 内山興正『八大人覚を味わう』1980年 柏樹社
※5 トルストイ民話集『イワンのばか』2004年 岩波文庫

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