最近新聞やテレビで戒名のことがしばしば取り上げられます。それは少なからぬ人が「何のための戒名なのか」、「戒名は本当に必要なのか」等といった疑問を抱いているからです。この背景には現代の多様な価値観や社会の急激な変化によって人々の意識が大きく変わったことがあげられます。それが特に大都市の住民の宗教離れや葬送の考え方の変化を招いていると言えましょう。とりわけ「法外な戒名料を寺から請求された」というように金銭に絡む問題は、寺院や僧侶への信頼感を著しく損ね、ひいてはそれが仏教そのものへの不信感を招いていることは否定できません。
この戒名の問題は葬儀や死後の問題と切り離して考えることはできません。そこでここではまず禅宗で執り行われる葬儀の意味合いを考え、そこから戒名を巡る問題に触れてみたいと思います。
禅宗の葬儀・・・戒名の現実的な意味
日本に伝わった仏教には多種多様な宗派があり、考え方や儀式のあり方にも大きな違いがありますが、禅宗の葬儀の特徴をひとことでいうなら、故人をあたかも生きた人のように扱うということだと思います。
導師はまず俗界の恩愛を断つために故人の頭を剃り(剃髪之偈)、これまで知らず知らずのうちに犯してきた様々な悪業を懺悔させます(懺悔文)。次に仏法僧の三宝に帰依させ(帰依三宝)、そこで戒名を授けて仏弟子となることを許すのです。
戒名が仏教の信者になった証である以上、生前に授かっておくことが本来の姿であることは申すまでもありませんが、殆どの人は生前に戒名を授かっておらず、仏縁を結んではいません。そこでこのように葬儀の場において導師は故人を生きている人として扱い、戒を授けて新たに名前を与えることで仏縁を結ばせているといえます。そして故人が生前できなかった仏道修行に精進するようにと、引導を渡して送り出すのです。ですから禅宗の葬儀には「極楽浄土へ安らかに往生してください」といった意味合いは希薄であると申せましょう。
このように戒名は本来の意味を離れて、故人の人生を集大成して、その生涯を讃えるために死者に付けられる新しい名前として通用しています。いわば“死後の勲章”(山折哲雄)として授けられるものであることについて―もちろん差別戒名といった許されない過去はありますが―多くの人が違和感を持たずに続いてきたのでした。
では“死者の名前”として広く認知されてきた戒名が、なぜ昨今問題になっているのでしょうか。
布施の心を忘れた「戒名料」
寺やそこに住む僧侶が檀信徒の布施と信心とによって成り立っていることは今更申し上げるまでもありません。布施は別名、喜捨とも呼ばれるように、本来見返りを求めず人それぞれが応分の志を差し出し、受け取る方もそれを選り好みせずに受け取るという大事な捨我行です。この布施は仏道修行の原点ともいうべきもので、簡単な様に見えて実は差し出す方も受け取る方もとても難しいことです。
例えばよくお寺には普請したときなどの寄付札が掛けられていますが、あれはどこのお寺でも例外なく金額の多い順番にかけられています。これはお寺の側が布施を受ける心を忘れてしまった一例だと思います。布施が応分の喜捨であるなら、お金持ちの百万円と貧しい人の一万円とは、同じ値打ちであるはずです。にもかかわらず金額の多いものを上位に据えるというのは世間の価値観であり、布施の心を無にされたと非難されても仕方ありません。そして布施はいつの間にか「お経料」や「戒名料」という言葉に取って代わられようとしているのです。
私の自坊は東京の郊外にありますが、十年前に宗教法人として認可を受けたばかりの新しいお寺です。したがって檀信徒の当主も地方出身の次男三男が多く、初めて葬儀を経験する場合が殆どです。冠婚葬祭を世話する隣組といった関係も希薄で、そのような場合にはよく「戒名料はいくらですか」と尋ねられます。確かに寺から戒名料いくらとはっきり言われれば、布施の額について悩む必要は無くなりますし、額が少なすぎたのではないかと不安になることもありません。ですから一般の人たちはむしろ額を示してくれることを望んでいるとも言えます。
私の場合は自分の考えを話して、あくまでも自由意志で喜捨していただくよう理解をもとめています。しかし菩提寺を持たない人が葬儀の半分を占めるという都市部では、葬儀社の紹介してくれた僧侶と喪主とが初対面というケースは少なくありません。その場合死者を仲立ちにして戒名料という言葉を持ち出さないと話がまとまらないというのは当然のことでしょう。また菩提寺があっても日頃からお互いのコミュニケーションがないのでは、このようにビジネスライクになってしまうのも無理なからぬことです。
しかしそれは戒名料が実際には信仰に基づく布施ではないことを如実に示しているのです。つまり「戒名」をものとして売買するといった意識が僧侶の側にも受ける側にも生まれてきてしまっているのです。
葬式仏教の本義
このように布施する心が廃れ、「戒名」が金銭で語られている以上、施主は見返りを求めているはずです。そしてその見返りとは「よい葬儀だった」と納得できることではないかと思うのです。葬儀が死者を弔う儀式であることは当然ですが、実はそれ以上に遺されたものに死を受容させるという大切な役割があります。親しい者を喪うという悲しみの中で―それは多くの場合突然やってきます―遺されたものがその死をどう納得し、悲しみを癒していくのか。そこに私たち僧侶が関わっていける余地はまだ残されていると思うのです。
葬式仏教という言葉は必ずしもほめ言葉ではありません。多くの場合は葬儀の意味合いもお経の意味も解らないまま事務的に事を運び、お布施をもらって終わりという僧侶のあり方を批判する意味合いで用いられています。しかし私は現代人の多くがこうした葬儀や法事でしか仏教にふれる機会がないのなら、葬式仏教という言葉に積極的な意味を持たせることはできるのではないかと考えます。
私の経験から言えるのは通夜や葬儀の折に法を説く僧侶が実に少ないということです。年齢を重ねこれまでに数多くの通夜・葬儀に参列したという方々から「こういう場でお話を伺うのは初めてです」と言われることは珍しくありません。その気持ちは自然と遺族にも伝わるものです。戒名もまた然りです。親が生まれてきた我が子にいろいろな思いを込めて名前をつけるように、戒名もなるべく故人の来し方を尋ねて、遺族に説明できるようにして授けます。このように僧侶として当たり前のことをするだけでも状況はかなり変わってくるのではないでしょうか。
おわりに
戒名は戒を受けて俗界を離れ、釈迦の弟子になったことを示す証であるというのが本来の意味であることは繰り返し申し上げてきました。しかし日本では出家と在家の境界は実に曖昧です。出家と言いながら家族や財産を持つ僧侶に対する人々の評価には厳しいものがあります。
個人がいかに生き、人として尊厳ある終末を迎えることがより難しい時代に移りつつある中で、葬儀の仕方も将来的には多様化していくでしょう。次第に増えつつある散骨や無宗教式の葬儀に踏み切る動機はそれぞれでしょうが、どれも“脱戒名”を目指している点では一致しています。そしてその行き着く先は寺院(僧侶)無用論かもしれません。
元弁護士の中坊公平さんはかつて「医者と弁護士と坊さんに共通することは、いずれも人の悲しみや不幸の上に成り立っていると言うことだ。この痛みを忘れたらいかん」と話しておられました。戒名が現実には“死者の名前”として広く受け止められている現実を思うとき、人々の布施と信心とに依って立つ私たち僧侶は心して聞くべき言葉ではないでしょうか。
核家族化と少子化によって家族の規模はかなり縮小してきています。このような状況のなかでは「家」は三代続くことさえ珍しくなってきました。事実私のところでも墓を建てて十年も経たないのに、既に無縁化しているところもあるのですから。このことはこれまでの家を単位とした墓のあり方や檀家制度が限界に達していることを物語っています。
檀家制度の善し悪しはともかく、寺院と檀家という関わりから、一人の僧侶として、悲しみや苦しみを抱えて生きる個人と向き合わなければならない時代が来ているのです。戒名を巡る昨今の様々な問題は、このような時代の流れの中で、旧態依然としている私たち僧侶への痛烈な問いかけの象徴のように思えてならないのです。
普門庵住職 見城宗忠